2020年2月27日 サイトトップへもどる
プロローグ1
「花の下にて春死なむ」
そう、わが師である西行法師の
「その如月の望月のころ」がいまである
師の庵はいくつかあるが、これは京都西山大原野の頃である
法師が鳥羽天皇に仕える北面の武士の頃の武勇の話は、あまり聞かない
武士であれば、死ぬことを、通常人よりは多く覚悟したに違いないのに
彼は死に方について、冒頭のうたのような、有名な願望を持っていた。
プロローグ2
対極的な歌人は、万葉集の歌の十分の一余を詠んだ、大伴家持である。
越中の国主だった頃の彼の長歌に「海ゆかば」がある。
海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行(やまゆ)かば 草生(くさむ)す屍(かばね)
大君(おほきみ)の辺(へ)にこそ死なめ かへりみはせじ
これは自分の「死に方」を表明した歌であるという。
※:万葉集はさておき、近代以降「海ゆかば」を多くの人々が知ったのは、
長歌(詩)ではなく、歌曲(音楽)となった後のそれであった。
作曲者は信時潔さん、牧師の家に生まれ東京音楽校(東京芸大の前身)に学ぶ。
作曲法やチェロなどはドイツで学ぶ。古典派、ロマン派的な感じだ。
今は没後50年だが、北原白秋などの詩も作曲し、美しい歌曲を作っている。
文部省唱歌も作っており、校歌など多くの作品を残している。
戦争の賛美ではなく、音楽として正統的な彼が作曲した「海ゆかば」は、
NHKの委託で昭和12年に作られ、レクイエムのように荘厳な曲で美しい。
当時は国民唱歌とされ、戦争末期には大本営が玉砕を伝えるときにも使われた。
歌詞に「大君の辺にこそ死なめ」とあり、これが利用されたのだ。
このメロディーが「鼓舞する軍歌」であるのか、「鎮魂歌」であるのか、
受け取る人が決めればいいことなのだが、二つに分かれている。
メロディーは心をゆする
終戦前の敗戦の色濃かった時代、そのころ生を受けたせいか、私の場合は
このメロディーを聞いたり口ずさんだりすると、涙ぐむことが多い。
多分理由は、学徒動員で神宮外苑の雨中行進をする若者の写真が浮かんだり
知覧から南の空に飛び立っていった若人の「わだつみのこえ」の一節だろう。
先輩達の心にも、「誰かのために死んでもいい」という部分があったと思う。
「大君」ではなく「愛する人や、家族」のためだったと、戦後よく指摘された。
1943年10月21日 学徒出陣壮行会
別の写真では一人一人の顔が見える、若者たちの横顔は凛として美しい。
先輩達に少し遅れて生を受け、これまで何不自由なく暮らしてきた自分には、
このメロディがスイッチになって、悲しみととともに、感謝と鎮魂しかない。
それは「交感神経」の働きだろうが、理屈抜きの本能のようなものだおもう。
(最近になって急速に「大君」は「象徴」に変わってきた。)
暮らしが本能まで変えていく???
犠牲ともいえるこの本能が。グローバルで普遍的?かは今でも確信がない。
日本人がだんだん「経済動物?」になると、失われていく本能かもしれない。
ところで、経済には無関心のように思える動物(哺乳類~魚・・・)には
なんとしても、子孫を残そうとする「種の保存」の本能があるようだ。
死ぬことは生きること
会社人間を卒業したころから、「死ぬこと」が手段や目的でないと気づいた。
当然のことながら、「生と死は表裏一体」である。
生きることで「この国の明日のために」働き、先人に対する感謝を伝えたい。
そんなつもりでエネルギー・ソリューションの仕事を始めて17年たった。
仕事(≒楽しみ)が続くのは「人生100歳時代」を意識したことによる。
文明開化以来でも、100歳時代の始まりは団塊の世代のリタイアと同時期だ。
日本列島に「ジョーモニアンが棲みついて以来初めて」のことである。
これは「神様がくれたチャンス」かもしれない
(私の予想だが「余生を楽しむ」は死語になる。∵余生はなくなる)
「生を重ねる」というのは難しくても、「やりがいのあること」にできる。
自分自身がマイライフ・デザイナーなのだから、これを「意識」すればいい・・
まあこれが「悟り」なのかもしれない。どのように何をするかは色々だ。
「海ゆかば」にもどる
家持の長歌では、海に続いて、「山ゆかば 草むす屍(かばね)」とある
日本の地形からすれば、山と海をつなぐ部分が「野辺」である。
次の写真は、家持が二上(ふたかみ)山を背に、立山連峰を見たものです!
(高岡は昔からブロンズ製品が有名です)
流れる川は射水川(いみずがわ) その先は富山湾にそそぎます
高岡市万葉歴史館資料から
死者を葬るには「海」や「山」は例外で、里に近い場所がよいはずだが、
多くの場合は、少し離れた野辺に土葬した。
この理由は大胆?に想像すると、「死者は別の世界へ行く」とされる。
「鬼籍に入る」という言葉があるように、ヒトには死に対する怖さもある。
しかし、野辺に魂までを埋めるわけにもいかないから、魂は川に流す?
(ご承知のように手段は各地で色々ある)
川は海につづき、海のかなたには別の世界があり、竜宮城まで発明された??
好きな野辺の川を見ていると、きっと海まで魂を運んでくれそうな気がする。
方丈記を持ち出すまでもなく、「行く川の流れは絶えずして」は無常観がある。
すこし大きな河になれば「悠然と流れていく」のだ。
その風景を、古来日本人も受け入れた論語は、このように伝えている
逝(ゆ)く者は斯(か)くのごときかな、昼夜を舎(お)かず
友と南伊豆を歩いた(2月10日)
時はまさに西行法師のこがれた「如月の頃」だが、晴天で少しの寒さもない。
奥石廊の海は、風が強く、小高い所から見れば、白い波が沖に立つ。
南伊豆の海岸は集落が少く、歩いて峠を越えて、バス停のある漁港につく。
バスはあっという間に下賀茂の町につく。
地形からいうと3本の南伊豆の小さな河川が、この町で合流して
東伊豆の弓ヶ浜で相模湾にそそぐ、南伊豆を東西に流れる川である。
その小さな川(青野川)の土手に植えられた桜が、非常にすばらしい。
もともと交通が不便で人出も少ないのに、例のコロナウィルスのためか
不謹慎だが、ゆっくりと静かに桜を楽しむことができた。
まさに「春の小川」の景観が作られていた
初代の文部省唱歌は1942年(私たちの世代が生まれた年)に作られた。
「小鮒つりしかの川・・」とおなじひとの作詞だからここにも出てくる
春の小川は、さらさら行くよ。
岸のすみれや、れんげの花に、
すがたやさしく、色うつくしく
咲けよ咲けよと、ささやきながら。
春の小川は、さらさら行くよ。
えびやめだかや、小鮒の群れに、
今日も一日ひなたでおよぎ、
遊べ遊べと、ささやきながら。
私たちの今回見た見た小川は、この唱歌とは少し違っていた。
春の花がすみれや、れんげではなく、「桜の花」と小川の取り合わせだ
さすがにそこそこの年齢を経た自分は、「桜の下で思う」ところがあった。
この唱歌には、「悟りのキーワード」があったのである
青野川と言っても川幅は数メートル、小川と言っても良いのである
川から見える花は桜(河津さくら)と水仙と黄色の菜の花だ
花達は几帳面に顔を揃えて川面に向けている。
エビやメダカや小鮒は見えないけれど
水面には鴨が数羽、ゆっくりと遊んでいる。
ここまできて、川の土手に花の咲く草木が植えられる理由がわった!
川を下っていく魂のために、水面からきれいな草木を見ていただくためなのだ。
(かなり少数派のユニークな解釈です)
エピローグ
歩きながら、不思議に天から聞こえてきたのは、唱歌「春の小川」でした。
(視覚と聴覚がリンクして・・・なんて言うのはキザですよね)
これからの人生を「どのように生きていこうか・・」と考えている自分に
天啓のように浮かんできたのは「春の小川はさらさら行くよ」だったのです。
悟りは「さらさらと生きる」でした。
論語由来のおまけを加えれば、「とどまることなく」です。
遠き日の 俤(おもかげ)のせて 汝れ詠う(なれうたう)
春の小川は さらさらいくよ ♪♪
「とどまることなく さらさらと」
これが桜の下で啓(ひら)いた悟りでした。
2020年2月27日 前嶋 規雄 記