「芭蕉の奥の細道を歩く」は完了してしばらく過ぎたが、振り返れば懐かしい。
数年間にわたり、ともに歩いた「仲間の風」にさそわれて、
旧交を温ようと、次は西国方面を、同年代の5人で歩くことになった。
芭蕉翁の旅は大阪で終っているが、本人の「枯れ野を駆け巡る夢」は了っていない。
俳人で研究家でもある長谷川櫂さんの番組で、芭蕉は「異国からの風」に吹かれたくて、
その地である(異文化の入ってきた)「長崎まで歩きたい」と思っていたことは知っていた。
阿蘭陀(おらんだ)も 花にきにけり 馬に鞍 芭蕉
ひげを生やした?阿蘭陀人のカピタン(キャプテン)も、馬に乗ってゆったりと
花(桜)を見に来る彼のさまを、絵のように思い浮かべたなら、芭蕉の感性はすばらしい。
「風流には、洋の東西はない」と言っているようだ。
この句は調べると、延宝6年(芭蕉34歳:江戸で俳諧師にデビューの頃)の句だ。
当時許された行動範囲は長崎出島だけのはずだから、この阿蘭陀さんは、
本当に江戸までやってきて、話題になったのであろうか? もしそうであるなら
タモリのように、「特別な許可をもらって」きたのか?・・考えても楽しくなる
蕉翁の「長崎まで」は、内に秘めただけのものでなく、他人にも言っていたようだ。
ワタシがそうおもうのは、高弟の曾良が、芭蕉の死後に筑紫を訪れており、彼の墓は
壱岐に残っている。曾良は高弟で、バトラーの役割でもありながら、芭蕉に対しては
複雑な感情を持っていたようだ。古典的なダジャレでいえばこうなる。
「ハラに一物、背に荷物」
旅の候補地を企画した友から、行き先の相談があったとき、候補には壱岐もあった。
でも遠いから、賛成票は集まらなかったようだ。
ワタシは他の誰にも「海の細道」の話しはしていない。
何となくワタシにとっては、勝手に「海の細道」のつもりの気分が残っていた。
それは、長谷川櫂さんの紀行に「海の細道を行く」があって、忘れられないからだ。
これは瀬戸内海を抜けて、最後は長崎に至る、コースになっていた。
行ゝ(いきいき)て たふれ伏すとも 萩の原 曾良
乞食同然の姿で西国を歩き続けた、曾良の句である。
こうなると、曾良の「凄み」を感じてしまう。
花の元禄の俳人でも、「すごい覚悟を持って生きていたのだな」とおもう。
緩みっぱなしの我が平成のジイサマ連は「あそこでもない、ここでもない」談合の末、
瀬戸内海のほぼ真ん中の真鍋島を目指すこととなった。
言うまでもなく、ここなら「海の細道」の途中のポイントだから、黙って賛成。
「瀬戸内海」と言われて、すぐ懐かしく思い出したのは、尾道から渡った因島だ。
半世紀も前の思い出だが、学生の頃、夏のほぼ1ヶ月を因島(広島県)で過ごした。
尾道から海をわたるのだが、目と鼻の先に、このあいだ有名になった向島がある。
優雅な避暑ではなく、因島にある造船会社で工場実習をしたわけである。
と言っても、土日は近くの島に渡り、泳いだり、昼寝をしたり、楽しい思い出だ。
「真鍋島に渡る」というのは、そんな「懐かしさとの邂逅」そのものであった。
今回は福山のひとつ手前の笠岡から、JR→フェリーに乗りかえて20km(五里)、
(対岸の四国までならさらに五里と)、瀬戸内海のほぼ真ん中である。
海の中と言っても、「日本のエーゲ海」とも言われた海域だけに、島だらけである。
大きな地図で見ると、太古の時代は四国と地続きで、海水が入り込んでも沈まなかった
部分が島として残り、浅い海は海の幸の宝庫だ。
真鍋島に行くまでの白石島で途中下船?して、展望台まで登り足慣らしをする。
次の北木島を経由して、目的の島に着いた。時刻は夕方だが、時差でまだ明るい。
船を下りると、何と港で迎えてくれたのがネコちゃん達、ゾロゾロと寄ってくる。
泊めてもらったのは年配の漁師さんご夫婦がやっている民宿で、もちろん獲れたての
海からの贈り物尽くしであった。
ゆっくり食事を済ませても、まだ明るい浜辺を散歩する。
「夕凪」の静かな海、港の入り口の灯りが、ゆっくりと点滅する。
散歩から帰ると堤防の上で、見覚えのあるネコちゃんが、なんと待っていてくれたのだ。
夕凪に 言の葉(ことのは)尽きて 細道の
先は夢路か 瀬戸の島かげ
翌日は真鍋島をあるく。平家側についた中世水軍の根拠地であったという。
今では、親切な人たちが静かに暮らす島であった。
自分の職業病か、この島暮らしの電力と、水はどうなっているか?と思ってしまう。
正解は両方とも本土から島伝いの海底ケーブル(パイプライン)らしい。
海岸の散歩の道では、海中から立ち上がったNTTの接続ボックスを見つけた。
太陽光発電パネルも少しあった。
ソリューションとしては再エネ100%は不可能ではないが
・景観との調和
・初期投資は国家施策?etc
こんなところで、こんなことを考えるのは、やはりワタシはビョーキかも知れない。
瀬戸内少年野球団のロケ地になった学校には、珍しくなった二宮金次郎さんが居る。
狭い傾斜地を活かして、キャベツや、馬鈴薯をつくって自給する。
坂のある狭い通りの向こうには青い海が見える。これが瀬戸内でよく見る原風景だ。
島で一番高い城山(標高127m)からの景観
とまあ本当に久しぶりの団体歩きで、良い想い出を重ねることができた。
帰宅後、あまり前例が無いと思うが「バーチャル連歌会」を開催した。
かねてから、やってみたいと思っていた、肉声のない連歌の歌会だ。
連歌はもちろん「宗祇」とか「紹巴」が有名で、独吟も希にあるという。
登場は4名で、時間の都合を合わせることができず(*^O^*)、亭主役のワタシ以外は
ワタシが代行??した・・・と言う点は「パントマイム」だ。しかしモノまねではない。
マルセル・マルソーのような独演ではない。
あの人なら、こういう「句」を詠むであろうと、代理人はそれなりの創造(≒想像)をする。
これはありそうでなかったとおもう。ワタシが出願して特許になっても、無償公開する(*^O^*)
発句はワタシの歌の師である西行法師さまが主客で、短歌の上半分をお借りして
発句とした。
芭蕉さまと、曾良さまは(これからも?)都合がつかず、ワタシが代作した!
なんでこういう句になるかは、本文の前半から理解いただくと幸いである。
としたけて またこゆべきと おもいきや
発句 西行師 新古今和歌集
昔日(むかし)のままに 瀬戸渡る風
脇 ワタシ (半世紀の昔を思い出して)
海を行く 細道つづく 長崎へ
脇 芭蕉 (代理:ワタシ)
異国の風は かくのごときか
脇 曾良 (代理:ワタシ)
こんな豪華キャストで連歌会を開くには、ネットを駆使して調査しました。
こんな、ITの時代に暮らすことは、決して悪いことではありません。
2018/06/03 前嶋 規雄 記
20180616oze kangaeru.htmlへのリンク