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20170724歴史を歩く旅 針ノ木峠

7/24

 久しぶりの山なので扇沢でバスを降り、腹ごしらえをしてゆっくりと歩き出す。

すぐに雨が降りはじめ、「すぐにはやまぬ」と読んで、雨具を付ける。

長い間ペアを組んだ友と一緒だから、ろくにしゃべりもせずゆっくりと上がる。

大沢小屋まで1時間と聞いていた割には、長いと思って時計を見ると2時間経っている。

変だと、ガーミンで確認すると、GPSの不調か表示があやしい、かえって焦る。

思うまもなく、ひょっこりと小屋があった。

じつは登山図では2時間で、コースタイム通りなので安心する。

小屋主さんは針ノ木に登山道を拓いた百瀬一族の3代目?さんで、その方の足なら1時間

ということだ。  

     

 コンパクトだが小屋はかなり新しく、静かな山小屋である。 

雨具だけ脱ぎ、荷物をねぐらに運び、乾燥用の灯油ストーブのところにおりてくる。

夕方になっても、同宿の人は我々を含めて計6名である、みな60才以上の人ばかり。

楽しい山話しで夕食までを過ごす。缶ビールを2本。

 夕食はカレーとサラダひとさら。(一人賄いの山小屋ではこれが多い)

ところがここのカレーの味付けは日本的。

お世辞抜きに、生まれてから食べたカレーでは、一番旨いと思った。

 百瀬さんによれば太陽光発電パネルの一枚を二人で小屋に担ぎ上げたとのこと。

電池は鉛電池で小型トラック用程度のもの。

いつも電力不足で、2階の客室には原則電灯は無い。もっとパネルが欲しい・・・

電力があれば食糧貯蔵ができると、小屋主さんは自然エネルギーにあこがれていた。

ワタシは「EVの中古電池を使えばよい」などと勝手な話をする。でもどうする?


 パネル担ぎ上げるのは某大学のワンゲルでもそそのかし、最低2枚上げれば・・・

トイレの曝気ファン用と冷蔵庫が使えるかもなどと、一人で妄想する。

何とか自分の知見を活用しなければ、ワタシは社会的存在になれない老人だ。

彼のお爺さん、百瀬慎太郎氏は、ウェストンが大町の対山館に来たころ生まれている。

大沢小屋は1925年につくった。標高は1670m。

ちなみに峠の針ノ木小屋は1930年につくられた。

ほとんど北アルプス開拓のころの足跡である。頭が下がる。


 小屋のそばに慎太郎さんの歌碑がある。

「山を想えば人恋し 人を想えば山恋し」

この慎太郎さんは若山牧水の弟子だったとか・・

「ウム、こうなるとワタシと年代が違うが、兄弟弟子か??」と妄想する。

人間の勝手な思い込みは、迷惑さえかけなければ自由だモーン!

  「高度順応のためにも今夜はここで泊まるのは良いよなー」・・・

  「明日は大雪渓を含めて高度差で1000mほど登るのか」とまで覚えていたが

ヘッドランプしか無いからすぐに寝付いてしまう。


7/25

朝は雨が降ったりやんだり、最初から雨用のズボンをはき、6:30に歩き始める。

今年は残雪が多く、30分位夏道を歩いて、雪渓におりる。ここが1770m地点。

アイゼンはカジタの6本歯、事前に時間をかけて、靴紐なしのトレッキングシューズで

この年代物アイゼンが履けるのか?取り付けは十分確認している。

現場でもしっかりと雪をグリップして、揺らぎや小さなスリップが無い。


 霧のなか、日本の3大雪渓の一つを登るのだが、出会う人もほとんどいない。

確かに天然冷蔵庫の中を歩く。ほとんど直登だが、通称「喉」という狭いところを

抜けると斜度が増す。しかしアイゼンは良く効いて登りやすい。

まっすぐ登るとマヤクボ谷で、針木岳に直登してしまうと注意が解説書にあった。

分岐を左にとると少しの登りで、アイゼンを外して、再び夏道を歩くことになる。

かなりガレたところを通過するが、最後はつづら折れの斜面を登って10:50に、

峠の直下2533mの針ノ木小屋につく。

なんとか4時間余りで登ってしまった。74歳チーム万歳である。


 小屋で待望のラーメン(今までの史上最高価格で税込み1000円超)と

ビスケットで昼飯を済ませる。

正午過ぎには、サブザックにアイゼンをいれて針木岳に向かう。

コースには頂上直下に、残雪の急斜面のトラバースが残っているとのこと
(老人の滑落はマズい、現場で分かるが「滑落すると50m以上は確実」の斜面だった)

幸い雨は降りそうではない。

 歩き始めに見た、薄いピンクのシャクナゲや、高山植物がすばらしい。

トラバースでは無理をせずにアイゼンを付け、ゆっくりと頂上にむかう。


 

   高山の証 霧に濡れた チシマキキョウ 

やっと頂上(200名山 2821m)。頂上の標識が見える程度で、ガスで何も見えない。

それでも満足感でイッパイだ。


 夕食は輸送条件の悪い小屋(ガスボンベだけはヘリ)だが、若い人達が丁寧に夕食を

用意して出してくれた。

厨房にブータン?の人が働いている。この人は翌日歩荷のためにおりていった。

こんなところまで日本はグローバル化なのか・・・・


7/26

 今日も視界が無いのと、そこそこ体に疲労がたまっているので、蓮華岳登山を諦め、

大雪渓を下ることにした。

 

老人が降り始めると、ガスは昇り出す。ところどころガスが切れて、連峰がチラリと見える。

ゆっくりと山座同定をしながらおりる。仲間のお気に入りの鹿島槍は爺が岳の左のはず、

だがちょうどガスで見えない。

ぐずぐずと、写真を撮りながら、再びアイゼンを付ける場所におりる。

後はゆっくり安全に下るだけだ。


 そんなゆとりが出てきた所為か、こんな厳しい急斜面をおりた昔の人を考えていた。

その人が佐々長政である。越中の戦国大名で、織田信長の親衛隊であることだけは

知っていた。

 後で調べると面白いことが判った。天正12年(1554年)、まだ天下の行方が

定まらなかった戦国時代、越中の長政は「われこそ」と中原に駒を進めんとする。

 それは彼のロマンだが、どうも運悪く勝ち馬にのれず、仲間の柴田勝家とつるんだり、

秀吉には疎まれていた。

理論通り長政は、「敵の敵」につこうとして、この際は家康の背中を押そうと、

焦ったのか、欲をかいたのか、冬の針ノ木を越えて、浜松の家康の元にいく。

その家康は例の慎重さで、腰を上げるそぶりも無い・・・こんな風景が見えてくる。


 武威のデモンストレーションも狙ったのだろう。越中から信州へのコースを、

針ノ木谷から「冬の針の木峠を越え」と思いついて実行する。

誰もが不可能と思う12月に、2533mの針ノ木峠越だ。

明治になってもこの杣路(そまみち)の急斜面は、内外の著名な山岳家達が

「悪絶険絶天下無比」としている。(リチャード・チェンバレン、小暮理太郎など)

100余名の兵士を連れて下る。その年の雪はいかばかりだったろうか。


  針ノ木の  峠を渉(わた)る  軍兵(つわもの)に

     信濃はるけく 寒気は烈(つよ)く   


 日本の戦国時代に、戦略上から、佐々成政は軍団100余名を率いて越中から信州に

進出した。寡兵で意表を突くのが「想定外の選択」だったのだろう。

雪渓を下りながら、頭は勝手に、カルタゴの「ハンニバルのアルプス越え」を思いつく。

後日、別の級友にこの話をすると、「ああ象を連れたアレか」と彼は言う。

(つまりワタシの友人はみな教養人と言いたいのだ!)
この一言で触発されて思ったのは、「本来は平原に住んで寒がり屋さんの象さんだ」
それを四足歩行の戦車代わりに
使うなんて、まさに「奇想天外」だ。

 

       資料はWikipediaから


 現代日本人のワタシは、針の木岳、スバリ岳、・・・から爺ケ岳に連なる頂きを

チラチラと左手に眺めながら雪渓を下る。

下りながら、カルタゴのハンニバルの偉大さを考えていた。連想が変だな(⌒▽⌒)
でもよく思うのは「登山ほど思索にふさわしい場所はない(岩場は除く!)」のだ。

 谷から冷風が昇って来て心地よい。季節が違うとは言えのんきなものだ。

アイゼンは快調に効いて、夏道をくだるより、はるかに楽だ。

どこからかうぐいすの声が聞こえている。

 ふと気づけば、雪渓の上には、舂ならぬ初夏の気分が流れているではないか。


    うぐいすよ 雪踏み下る わが背なに

         春のなごりの 唄を寄せるか


 同じ場所の行動でも、個人と時代が違えば、辺り(≒環境)から受けとるるものが違う。
命がけで天下を狙う武将成政には切迫した「悲壮感」が感じられたのであろう。
彼はまもなく、戦国時代の力学関係から、自刃に追いつめられることになる

  彼の戒名は成政寺庭月道閑大居士。
辞世の句は「この頃の 厄妄想を入れ置きし鉄鉢袋 今破るなり
   鉄鉢:てっぱつ 托鉢道具で中には「心」が入っていた  袋:肉体 我が身のこと
戒名は他人が付けたものだが、自前の辞世の句はすばらしい 
 「不運」にわが心は取り憑かれ、、今となっては「わが身を自分で突き破る」
   享年53歳、その時の彼の言葉は烈しいものだ。 
 

 幸いなことに、最近の吾人は「自然に溶け込む点景」になりたいと感じだしている。
彼の辞世の句は「それがいいのだ」と教えてくれたように思う。

 蛇足だが、ウグイスは春の季語(代名詞)ではないとおもう。
「ウグイス」と「春」と季語を重ねた
ルール違反でもない。
そのまえにそうした短歌の作法は、ワタシの性には合わない。

日本は広い、季語でも「後立山バージョン」もあるよな?とおもう。


世界はどうなっているのだろうか・・・・精神構造も
乏しい知識で言えば、西洋の詩にも季語のようなものがあるが、ゆるい。
ハンニバルがアルプスの峠で、どんなポエムをヒネったか?
少年の日に読んだ「プルターク英雄伝」には書いてなかった??とおもう


「周辺環境」だが、そこで暮らす時間が少しでも続くと「環境が人間を作る」は真理だ。

ワタシの一番長く研究しているのは、川喜多二郎先生に触発された「文化人類学」。

今では「産業文化人類学」が自分のライフ・タイムのテーマになっている。

        2017/08/06  前嶋 規雄 記

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