2016年6月14日 サイトトップへもどる
【はじめに思いありき】
テーマは、司馬遼太郎流に言えば、今回は「沼田街道をゆく」になる。
沼田街道は参勤の沼田藩の藩士が前橋に向かう道とされるが、今の地図には
沼田以北も沼田街道とされている。実態は会津と沼田の交易路でもあった。
この道の大半はバスで通過できるが、徒歩でないと繋がらない部分が昔からある。
それが尾瀬沼周辺だ。最低でも荷駄が通行不能ならば、交易路とは言えないのだが・・・
それを実感するのだ。(今回も長男が「付き添い」?:現実は逆だが・・・・)
【会津街道について】
この街道は、歩きはじめた沼田が起点なのか?実はNOで、ゴールは会津である。
そもそも街道のどちらが起点なのか?やはり経由点(ルート)が街道名になることが多い。
檜枝岐の想い出は、半世紀前に行ったときから、「出づくり小屋」という言葉の響きだ。
宿泊もできる有名なドイツのガルテンは市民農園だが、檜枝岐の小屋は夏の耕作用で、
冬は越せない厳冬の僻地なので、出づくりとなる。つまり季節農業基地である。
檜枝岐の人の姓は星、平野、橘で大半だから平家だが、檜枝岐歌舞伎の演題は源氏モノも多い。
従って「イザ鎌倉」(時の権力に参集するため)の鎌倉街道ではあるまいなと思う。
戊申戦争のころは大江湿原に会津軍の政府軍北上に備えた防塁があったとか。
【上毛高原から尾瀬ヶ原へ】 6月4日
今年は異常気象で、例年より3週は早く、尾瀬の春が事実上お終いになった。
可憐な水芭蕉も、葉と同時に開く峯桜も、そして健在が心配なあの絶滅種の可憐な花?も、
急ぎ足で駆けて行ってしまったようだ。
例年ならべストシーズンの6月初めの土曜日、上毛高原から鳩待ち峠経由で尾瀬に入った。
出迎えてくれたのは、ワタスゲの群落や、静かに水面に尾瀬コウホネを浮かべる池塘達だった。
もうこれは初夏へのプロムナードだ。
さすがに好天の土曜日だ。峠から尾瀬ヶ原におりて、しばらくは木道の渋滞でびっくり。
とはいっても「山の鼻」あたりを過ぎれば、静かな尾瀬ヶ原を取り戻す。
くっきりと正面には東北随一の「燧ヶ岳」。そんな風景を背に、一本の樺の木がたつ。
「今年も会えたね、君と会いたかったんだ」といえば、少しアタマがおかしいだろうか・・・
人寄せず 陸奥(みちのく)の原に 樺(かんば)立つ
往古(むかし)火を吐く 岳(やま)を従え
【今年の尾瀬ヶ原】
東電小屋を過ぎたヨッピ川のあたりでカッコーが鳴いた。尾瀬ヶ原が奥まると、
夕べには不思議なことに、いつ行ったときでも、寂しい聲が野面をわたる。
その聲が、逝き去りし者を偲ぶように聞こえるのは、少し衰えた、私の聴覚のせいなのか。
ヨッピとは 「呼ぶ」、「集まる」、「別れ」という意味のアイヌ語なのだそうだ。
まるで「人生そのもの」ではないか。
尾瀬ヶ原に山の融雪などを集め、流れとなって、川はくだる。昼も夜も。
名前は只見川となり、銀山湖をつくり、阿賀野川となって、末は日本海に注ぐ。
カッコーは、しめやかに、人生を語るのだ。
逝くものは かくのごときか 不思議不覚(ふしぎなし)
過ぎゆく春の 尾瀬の夕べに
※ ゆくものはかくのごときか 「論語から」
こぎれいな山小屋で汗を流し、お気に入りの、水芭蕉のラベルのワンカップ付きの夕食。
その後まだ明るいブナ林をちょっぴり歩く。アルコールで血管が拡がると、低体温になりそう。
こんな時はポケットに手を入れ、足よりも耳だけが活発。
気をつけて聞き分ければ、様々な鳥が山毛欅(ぶな)の森のあちこちから夕べの歌だ。
ウグイスのすこし寒げな夕暮れの歌、いつも愛想のよいコマドリ?の連呼・・・・
そして真打ちはキツツキ(キツツキは雄だ!)。彼は正確に8連発を数秒おきで繰り返す。
乾いた音は、間違いなく彼は森の軽機関銃の射撃兵なのだ!(あれくらいで、酔ってはいない!)
タタタタタ 戦さは続く キツツキの
軽機関銃(けいきかんじゅう) 尾瀬の春たけ
【元湯小屋から沼尻へ】 6月5日
夜明けだけ少し曇ったが、見晴らし十字路を左折するころには快晴。
今日はロングトレールになる沼田街道(≒会津街道)の核心部を歩く日だ。
尾瀬ヶ原は、このあたりでは誰もが気分が良くなり、すれ違う人とにこやかに挨拶を交わす。
春の花はすべて終わって了ったわけではなく、小さくて紫色のタテヤマリンドウは健在だし、
鮮やかで黄色なリュウキンカも流れを飾る。
今の花が少ない分だけ、あまり気にしなかった鳥の声を余計に楽しむことができた。
常連のこまどり、うぐいす、カッコーなどは朝から元気だが、日が高くなり野原が暖まると、
雲雀がダントツに元気だ。
(沼山峠への)『山路(やまみち)をのぼりながらこう考えた』?
漱石の「草枕」の一節に、雲雀を詠った英国の詩人の引用があったな。(⌒▽⌒)
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「たちまちシェレーの雲雀(ひばり)の詩を思い出して、
口のうちで覚えたところだけ暗誦(あんしょう)して見たが、
覚えているところは二三句しかなかった。
その二三句のなかにこんなのがある。
We look before and after
And pine for what is not:
Our sincerest laughter
With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those
that tell of saddest thought.
前をみては、後(しり)えを見ては、物欲(ものほ)しと、
あこがるるかな われ。
腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。
うつくしき、極(きわ)みの歌に、悲しさの、極みの想(おもい)、
籠(こも)るとぞ知れ」
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明治の本当の教養人は英留学で読んだとしても、こんな時に、覚えたところだけでも
これだけ取り出せるとはスゴイとおもう。
※ pine:思い悩む
シェレーの詩は「雲雀に寄す」
「そんな人間に引き替え雲雀は・・」と羨むように詠っている
でもこの場所では、吾人が好きなのは金子みすゞのうた
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キリリ、キリリ、竹とんぼ、
あがれ、あがれ、竹とんぼ。
お山の煙よりまだ高く、
ひばりの唄よりまだ高く、
かすんだお空をつき抜けろ。
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吾人の記憶は怪しいが、どこで聞いたのか、読んだのか、そんなことはさておいて
こんな尾瀬ヶ原で、吾が心の鼓膜に聞こえてくるのは、概略はこんな感じ!
尾瀬ヶ原 ひばりのおうち 空の果て
想いだす詩句(うた) よき歳かさね
【沼尻から沼山峠経由七入りへ】
沼尻から沼山峠に向かう。燧が岳の裾を廻るように歩くが、かって登った登山道はすべて
入り口で閉鎖されている。
集中豪雨が山に降り、河川に大量の水が流入し流木が河川を壊す。
燧ヶ岳のような登山道では、地滑りで登山道が通行不能となる。昔は5本あった登山道も
今は1本となっている。
翌日バスが走った南会津でも、目にしたものはこれだ。「故郷まさに荒れなむとす」である
異常気象は元(化石燃料)を断たねばならない。
大江湿原のあたりではいつもカッコーの寂しい声を聞く。今日もその声が野面をわたる。
今回は戊辰戦争のころの状況も調べてきた。
このあたりには政府軍を迎え撃つための防塁の跡が残るという。
とすると、カッコーの聲は「兵どもが夢の跡」を弔うのであろうか・・・
沼山峠は昼前に着く。ロッジでは目の前で煎れたコーヒーにありつく。(得をした感じだ)
いつもの御池を経由するバスには乗らず、峠から自然歩道を七入りまで歩く。
本当に山毛欅の新緑は美しい。腹一杯に緑の風を吸い込む。
このルートの目玉は、「檜枝岐6瀧」のひとつの、「抱返の滝」を眺めることである。
表示があり、ルートから数分も離れていないところに、隠れるようにその瀧はあった。
これには声を呑んだ。こんな滝もめずらしい。巨大な蜘蛛が岸壁を抱えるような感じがした。
「瀧」を「綠の額縁」に納めるように、楓の若葉がそよぐ。熊は恐いだろうが、
秋にまた来れば紅葉との取り合わせも、初夏とは違う、「秋の一枚」の絵が見えるはずだ。
さてこの構図(映像情報)を、「さわやかさ」と一緒に詠もうとすれば、「あの人?の句」に
勝てるものはあるまい。ジタバタせずに自作は1文字だけで、感動は100%伝えられる。
瀧ひとつ うづみ残して 若葉かな ??
少し持論になってしまうが、「感動を伝える道具」には適したモノがある。
なにも三十一文字ばかりがベストではない。この場合は「絵」さえあるなら五七五が最適だ。
そんなことに一番の才能をみせてくれたのが、江戸時代では、蕪村だとおもう。
「不二(富士)ひとつ」の不二は、万人の頭のスクリーンに映る。しかし箱根の西麓から見た
新緑の富士は、果てしもない感動をもたらしてくれる。それがネットで見えたら!
今回の「抱返の滝」と言っても、文字だけでは、PPMの単位の人しか「想う」ことはできない。
これ以上諄く言うと「自画自賛」そのものであろう。詩歌の価値は押し売りするモノではない。
「それでいいのだ」と、バガボンのお父さんのように言うのがよい。
脱線から本線にもどる
結論として、昔からこの道が「会津街道」として歩かれたのだとは思えない。
さらに下って分かったが、川の徒渉点が多く、馬が通るどころか、現代人には登山道であろう。
でも昔の人の杣路(そまみち)とはこんなもので、商人も歩いたのかともおもう。
渓流に沿って2時間あまりで七入りに着く。その先はバス路を6km余り歩いて檜枝岐となる。
今宵の宿はネットで見つけた民宿。風呂は下駄を履いていけるところに「燧の湯」がある。
何度来ても大好きなその湯に入り、しっかりオバチャンの民宿で、簡素で充分な夕食。
イワナ、裁ちそば、などが並び、飲んだのは会津の地酒「男山」、ぬる燗で二合。
今日の歩行はガーミンの記録で21kmあまり(70過ぎてからではよく歩いたか・・・)
布団に入り、加藤登紀子の唄を聴きながら、意識不明で死んだように眠る。
【会津高原尾瀬口から鉄道で会津へ】6月6日
ゼイタクな台詞だが「今日も晴天」だ。
09:10檜枝岐発 バスで岩館村経由で尾瀬高原口につく。
接続する会津鉄道線の快速ディーゼル2両で会津若松に向かう。
1日フリーのバス切符を買って、駆け足で、武家屋敷と鶴ヶ城(外から見ただけ)を見学する。
もちろん面白かったのは武家屋敷(会津藩家老)の遺構と、武家社会の博物館である。
それは庶民の暮らしを映す博物館ではもちろんない。
【会津の武家屋敷を訪ねて思うこと】
かなり前から、ずっと考えていることがある。
近代史のどこで日本は曲がり角を間違えてしまったのか・・・
その時期は間違いなくあの維新のころなのだ。
対立の過程で、象徴的に主役を果たしたのは、長州と会津だ。
歴史はそんなに簡単に、白か黒かのレッテルは貼れない。
しかし白のレッテルを貼りすぎてしまったのが、吾が敬愛する司馬遼太郎だ。
彼は「坂の上の雲」を頂点として壮大な歴史を書いてくれた。
それは今までの日本人とは違う一面をみせてくれた。だから「国民文学」になったとおもう。
その後、「満州事変」のころまで、例によって資料を集め、書こうとしたが、先ができない。
分水嶺となったのは「ノモンハン事件」だ。
優れた近代日本の語り部である、半藤一利さんの書かれたものや講演を聴くと、精密に見えてくる。
これはある意味で、それまでと違う目で、日本人を見なければいけないことに気づく。
司馬さんも同じタッチで、違う文脈を書くことはできない。
彼は「ペンを折る」ような感じで沈黙し、しばらくして世を去ってしまった。
ーーーー中略ーーーー
この国は完膚なき敗戦ですべてを失った。それから70年が経った今でも、
必要以上に卑屈な国になってしまった。独立国が、自分の足だけで立つことができない国に。
考えると、維新以来、容(かたち)を変えて、この国の座標なき航海は今も続いているのだと思う。
(いつかシバリョウ:司馬遼を慕う一人として、続きを書きたい)
そんな想いで、愛着のある会津の地は何回か訪れた。
今回のおり、会津の武家屋敷を見たくて、ゴールの地にしたのはそんな訳だ。
資料館には案の定、幕府の2人が大阪湾を抜け出す(正しくは脱走する)絵画が残る。
最期の将軍徳川慶喜は、不満な松平容保を無理に従えて江戸に逃げ帰える。
主将を失った幕軍が、勝てる戦を失ったことを、無念そうに資料は述べている。
生活の展示として、会津では鯉を奨励して養殖されタンパク源とされたのは、天明の飢饉
(1782から5年間)がきっかけである。質素な倹約は武士の階級から率先して実行された。
と言うことは、「民は豊か」ということでもない。また天然資源的にも海産物、
鉱山資源などもなく、海外との密貿易もという手段もない。
こうした暮らしが続けば、足りないモノを分け合って、秩序を守るという人格が形成される。
生活や習慣が人格まで作るのだ。それは所得水準の上がった(日本を含め)新興国では、外面まで、
人が変わってきていることで分かる。(これも別の機会に)
当時の会津にもどすと、皮肉な言い方をすれば「不足の文化」であって、封建時代の身分制は
是認されたのである。
「ならむものはならん」と言う言葉は、「自制が持続の条件」として善くも悪しくも存在するのである。
「窮屈さの裏返し」が美学なのかも知れない。
しかし会津の美学というものは間違いなく存在し、「潔(いさぎよ)さ」という、
日本人の反面の良さとして、この国に華をそえた。
鶴ヶ城は(冬に訪れて雪に包まれた城はさらに)高く、美しく聳える。
それを見ているとこんな歌ができた。
武士道は かくもひもじき 生き方か
矜持の高さ 鶴ヶ城超え
【追記】
歌論になるが、この一首では「絵」が先で、文字は解釈(介錯?)するようなものだと思う。
【おわりに】
さて70年たって、未だに海図さえできていない事実は、この国に生を受けたものの責任でもあり、
自分なりにできるもので、これからの時間を使っていきたい。
人工知能のディープ・ラーニングなどは、この国の行く末のシミュレーションで定量化する
道具として、使えそうな気がしている。
2016/06/15 前嶋 規雄 記