桜と西行さんと海猫と   2016年5月14日        サイトトップへもどる

プロローグ 「桜と西行さんと海猫と」

  『みちのく潮風トレールを歩く 1回』

桜と西行さんの関係は、常識です。

しかしワタシの話には、そこに「うみねこ」が出てくるのです。

ワタシの見た海猫とは「ヨコナラビのこんな奴ら」なのです。

 

彼らの話は後から出てきます。

 

 このごろ、同年配の年寄りの暮らしを観察する機会が増えた。自分を含めてだが

一言で言えば、ろくな暮らしはしていない。気を使うばかりで暮らしている。

根源は本人の起因する部分が大きいのに、面白く生きていない。

期待できないモノを、自分の都合で期待して、がっかりすれば不幸になる。

それはもう止めだ。もっと素直に、ジーさま達は、「イヤなモノはイヤ」で良いのだ。

 

 そこで、やっぱり、「遊子は旅を栖みか」とするのが良さそうだ。

大先達の芭蕉さんの「奥の細道」を、数年前まで団体で、跡をたどって歩いた。

それは期待したものよりも、重くてかけがえのないものを心の中に残してくれた。

 それが済んでみると、すぐに「片雲の風」が吾人をさそい始めた。

やはりどこか歩きたい。芭蕉の師の西行さんも、みちのくを目指した。

       (↓西行法師行状絵詞文化遺産オンラインから)

 

その先人達に洗脳されたわけでもない。九州や、四国は少し遠い、やはりみちのくか・・・・

 みちのくでも、先人が行けなかったところと言えば、青森から、三陸の海岸を歩こう。

逆に終点は西行さんや芭蕉さんが歩いた松島のあたりをゴールとしよう。

そうして構想すること2年。ちょうど、環境省が東北震災復興をかねて、大きなトレールを作り始めた。
部分開通である。
かし全行程が完成するまで出発を待っても、閻魔さまがワタシを歩かせてくれるか?

 確かに芭蕉さんのころはまさに旅行インフラもなく、困難いっぱいの「漂泊」であった。

旅にかかる資金だって、芭蕉さんの場合は、旅先のスポンサーの祝儀も頼りのはずだ。

カードで払ったと言う話は出てこない?

 較べてみると彼が旅立った時は46才。ワタシの場合は73才で、これはハンディだ。

それなら、「難易度ほとんど一緒か???」などと変な理屈を考えた。(現代が快適に決まっている!)

 そこで、芭蕉がせかされたように、ワタシもみちのく潮風トレ一ル を歩くことにする。

3年以上かけて完歩をめざす。
ただし、尺取り虫方式で、端からきちんと歩こうとすれば仕事と等質になってしまう。

 同行の相棒は、中学から予備校まで同窓のO(オー)君が、気楽にのってきた。

 

 世紀のスタート(プレスの取材はなかった!)は2016419日東京発10:20分。

東京駅をはやぶさが走り始めた。

 なんと我々を八戸で待っていたのは「うみねこ」だったのです。

その1 八戸の桜

2016/04/19

 列車が仙台ををすぎると、窓外の桜は白さを増し、盛岡はあっという間で通過する。

八戸で新幹線を下りる。ブルットする程寒い。これは天気予報通り。

駅の観光案内の女性はパソコンを駆使して、バスの時間確認をして旅程を作成してくれる。

バスの中で親切に話しかけてくれた同年配の画家は、どこの飲み屋が良いのか、案内をしてくれる。
青森やその先の岩手で人達は、掛け値なしに親切なことを、現場で再認識することとなる。

 

 八戸のセンターからバスに乗り、第一目標だった、八戸公園に向かう。

折しも観光案内によれば、三日ほど前が開花日だ。

 二千本の満開の桜を、我れら約2名で独占した。音のない不思議な世界を体験する。

桜は北国の人の想いを内面で熟成させたようだが、饒舌ではない、控えめのピンクだ。

句碑が花を背に並ぶ。晶子の句碑もある。公園には大きな縄文時代の土偶が聳えている。

どうも小学生のころの、縄文弥生時代とひっくるめて教えるのは、大変に間違った教育のようだ。
縄文は紀元前の話だし、その中心は青森を抜いては語れないし、今でも発掘が進んでいる。

 

 折から時雨れたり、西空を見れば雲間に空が見たりする。さすがに青森だ小寒い。
公園の小高い展望台から見れば、八戸港も遠望できる。先駆けして開花した辛夷もここでは花を残している。

東京の白い桜よりも少し紅(べに)をさしたような満開の桜に、座を渡すかのようだ。

枝垂れが咲き始めたところで、みな重なって集合写真を見せてくれた。

 これが北国の春なのだ。

 

 

北国の 春はやっぱり 辛夷から

  桜ほんのり ひと目千本

 

 今宵の宿は天然温泉付き(と言っても安くて綺麗)で少し一服し、開店時間まで街をあるく。

選んだ店は、地元で少し有名な郷土料理の「番屋」に行く。メヌケの煮付けが最高だった。
やはり〆で呑んだのは、田酒(でんしゅ)となる。角が取れて品格が高い。


その2 ウミネコが我らの旅の号砲を放つ

2016/04/20

  起きたら晴天。しかし少し風が吹くと寒い。もうこうなったら歩くだけ!

市内のセンターからバスで鮫(駅名)へ。(何も八戸駅に戻る必要はなかった。)

見当をつけて海辺に出るとすぐ蕪島(かぶしま)の案内を見つけた。

海に出っ張った小さな丘、それが蕪島。ー面に鳥がいる。
「嗚呼(ああ)海猫」だ。

鴎と違うのは黄色い嘴と足びれ、奴らはデカイ。それが足を踏む場もない大群。

近よっても道をあけない。
風向きに同じ方向に止まる。「ヨコ並び」という言葉はこのためにある。
頭を撫でることが出来るかも!

ちょうど少し先日から、この島に、産卵にやって来たのだ。

 

 少しはなれた浜から彼等を見ていた。

前触れは何もなく、何千羽!の海猫は一斉に空にとび上る。

「本能で同期した集団」の壮大な演舞、右旋回左旋回!
密集して、高速で、衝突もしない。つい商売柄から、通信と制御はどうなっている?
 これに較べたら「次世代自動車の自動運転」なんて海猫の頭脳に負ける。

文字通りドキモを抜かれて、ぽかんとし見とれていた。

 

 

 海猫が   突然弾(はじ)け  大群舞(ぐんぶ)

   みちのく歩き  かくて始まる  

 

 これがスタートの号砲で、私たちの「みちのく潮風トレ一ル」は始った。
この日は約20Kmを歩く。

 

 砂浜など至るところで、たんぽぽと水仙が旅人を迎えてくれる。

海辺の道を、汐風をうけて歩く。陽は照るが風は冷気をふくむ。

やがて小高い葦毛(あしげ)崎につく。名前通り名馬を育てたみちのくだ。

 少し沖を内航船が通ってゆく。海岸から離れない昔ながらの航路だ。

右手の丘に白い鮫角(さめかど)灯台がそびえる。

 

--------- 後日談;作家吉村昭さんの講演をCDで聴く---------

幕末慶応4年榎本武揚は戦艦四隻(中でも開陽が新鋭艦)を率いて、品川から函館に入る。
よく知られた蝦夷共和国の設立である。官軍は艦隊を北上させ、函館に攻撃を加えようとする。

さすがは近年評価の高い榎本は、すでに暴風の江刺沖で、主力艦開陽を失っていたが、残りの

艦隊を率いてが函館から出港して、三陸沖で政府軍の艦隊を迎え撃つ作戦をとる。

 とりあえず鮫港(八戸)に入り停泊。
宮古に政府艦隊が補給に入る情報を割り出して、夜襲をかける作戦である。

これが歴史に残る宮古海戦である。結局は奇襲では成果は少なかったが函館に引き上げる。

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幕末の 強兵(つわもの)載せた 蒸気船

 鮫角(さめかど)岬(みさき) たんぽぽ咲いて



その3 我らの世代のこと

 海との狭い隙間を八戸線は走つている。鉄路は海辺をや松林の中を南に続く。

レールには1970年に、新日本製鉄に合流した「富士製鉄釜石(地元)1967年製」の刻印が残る。
とにもかくにも、49年もピカピカの現役で、文句も言わずに鉄路を支えていることなのだ。

 同行するわが友は、今でも「鉄は国家なり?」を信じている鉄屋さんだ。

彼には自分が入社した「八幡製鉄製」とはレールに記されていないかったのが残念なのだ。

 「右のモノを、左に移すだけ」の今の経済と違い、モノづくりで価値を生み出し、国を支えて成長した時代だ。

そんなつもりの我々は、ごく自然に「会社人間」になった。彼の気持ちも「そんなもんだ」と理解できる!

 大須賀の美しい浜辺、ここでも水仙の花の視線を感じても、ぼんやりと沖行く船を見ているワタシ。

やはり、ー刻値千金の時が流れる。


 圧巻は淀の松原をぬけ種差(たねさし)の天然芝に至るコースだ。立派な松林が眼下にせまる。
岩に砕ける白い波とのコントラストが水墨画のようだ。

 

 

黒松と 白き大岩 相見たり

  刻よとどまれ 往古(むかし)を聴かん 

 

道は県道を歩くことになるが、昼すぎには予定のゴール大久喜につく。駅といってもホームだけである。
改札もないし、期待のラーメン屋さんはもちろんない。

昼間は2時間に一本くらいで、ディーゼルがやってくる。
ちょうど列車はしばらくは来ないし、人の全くいない駅は不思議に感じる。
(これは真正の「都会病」なのです)
行動食と水で昼を済ませ、オプションコースを階上(はしかみ)に向う。

 


その4 洋野(ひろの)からは岩手県

2016/04/21

 昨日は階上(はしかみ)から午後の八戸線で、洋野(ひろの)町の種市(たねいち)で泊まった。

もうここは岩手県である。宿泊施設はオーシャンビューだし、もともとリーズナブルである。
トレールを歩いた人は、宿泊費をさらに1500円もディスカウントしてくれる(:環境省のおごり!)

 翌朝は優雅に洋野の海を眺めながら朝食をたペる。
しかし朝の8時14分に乗らないと1 1時まで3時間も列車はない!
海岸よりの林を3車両編成のディーゼルは走る。

 

 おもったより早く、今日の散策地の久慈につく。 久慈駅で情報を仕入れて街をあるく。
駅からすぐの小高い丘の巽山公園に、おめあての桜を見行く。みちのくの花はカラフルで、桜も満開であった。

 さらに西に向かって市民公園の森を登る。

展望の良い「高いところ」まで登ったと言っても、高度計では100m足らずだ。

この数字だけでも、久慈湾に浪を立て、河を遡上したあの日の恐ろしさは、ワタシでも見当が付く。

 いまは辛夷の枝越しに海を見る。眺望はすべてを忘れたように穏やかだった。

3.11のあの日には、この辛夷もまだ開いてはいなかったのだろう。

 

 「こぶし」ほど昔から詩歌に登場するものもちょっとない。

それが皆、「少年のころ」、「山村」、「北」、「春の訪れ」という感覚に結びつく印象がワタシには強い。

その気分を文字通り、「国民歌謡」にしてしまったのが、千昌夫のあの歌だ。
それがどこからか聞こえてくる。またワタシの幻聴だ。

 どうもあの唄は、日本だけではなく、オーバに言えば東アジア人の琴線にも受け入れられたようだ。

 最近人類の足跡はDNAで研究され、ゲノムからみると縄文人同じ系統の民族とのことである。

 

 

 

 咲く辛夷 この丘の花 北国の

   こころふるえて 鼓膜は不使用(つかわず)    



その5 久慈の町の人情

 見晴らし地点から少し下ると、あの「空気投げの三船十段」の記念館につく。

我々の少年時代その活躍を、手に汗を握って見た彼は、当地の生まれだそうである。

そこに吾が同行者の漕艇関係の友達が、我らをまっていて下さり、記念館を案内していただく。

三船さんは本当に普通サイズのひとで、デカイ男を、触らずに投げてしまうのだからスゴイ。
記念館のプレゼンもロボットの講釈師と3Dシアターでやるから、こちらも面白い。

当日は三船さんのお誕生日とあって、記念品までいただいた。

 



エピローグ 西行さんや芭蕉さんがここまで来れば・・・・

 西行さんや、芭蕉さんは生命をかけて、みちのくを歩いた。

そこで詠われたものは、見事な景観や自然を対象としたものが賞賛される、そんな印象を受ける。

 ワタシが思うのは、彼らが感動したのは むしろその旅で出会った人たちの「優しい心根」であり、
(都や江戸では不慣れな体験であり)、言葉を呑んだ控えめな表現になったのだと思う。

だから21世紀の吟遊詩人は、少し違うことばを吐きたい・・・・ 

 

 

 

 目を閉(と)せば  優しき人々(ひと)の 俤(おもかげ)や

  旅の終わりの 春ここにあり

 

 久慈から二戸まで、JRバスは久慈奥の渓流沿いを走る。

木々は芽吹くが、すこし海岸から離れて奥に入れば、小さな花の辛夷が我々を控えめに見送ってくれる。

これが「みちのく流」だ。 今回の旅のゴールの二の戸はそこだ。

 

                   2016/05/10 前嶋 規雄 記

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