信濃路に祖先の跡を尋ねて   2016年4月24日        サイトトップへもどる

プロローグ 『信濃路を歩く』

  ここは本州のほぼ真ん中、四月になっても、まだ早春・・・・

 浅間山に見まもられて、昔親から聞いた、「祖先の暮らした地を尋ねてあるく」小旅だ

 「祖先の跡」というのも、子供心に「言い伝え」のように聞いた記憶である
 いつかは確かめたいと言う想いを今回は確かめるのである。
 声をかけたら、長男が一緒に付いてきた。

  
 中山道は古来の街道、江戸は甲州街道から始まり、歌枕の逢坂の関で都にいたる。

東海道と対照的なのは、海辺ではなく、「すべては山のなか・・・」、裏街道である。

両側から山がせまり、狭間を抜けなければ東西がつながらない。

その交通の要衝が、佐久平に位置する江戸から25番目の宿の「望月」である。
 
望月は、平安時代、名月のころ宮廷に献上される名馬の産地で、地名となったケースである。

「望月の駒」は平安のころから歌枕である。

   逢坂の関の清水に影見えて いまや引くらん 望月の駒  紀貫之

 母方の先祖は江戸時代に、それなりの訳があって、この望月から集団移住を決め南下し、駿河に至ったと聞いた。
それは聖書に出てくる、「エクソダス、中世日本版」であるといえば大仰すぎる。

現場を見て、考えていたより、「大地や自然の優しさと恐ろしさ」、そして庶民にとって「人災と言える部分」があった。
それが、住み慣れた土地を離れると言う決心に、深く結びついていたことを直感した。

 敢えて言うなら、この地を離れ、黒潮の流れる地を求めて、そこがカナンの地であるよう大平洋を目指したに違いない。

 この旅の至る所から、浅間ヶ峯がみえる.

街道が千曲川を渡ったあたりから、春霞のなかによこたう浅間山に残雪が見える。

厳しい冬の季節が終わり、土手には水仙が咲き、眼を凝らせば、小さなイヌフグリが小さい青い花をつける。

 これが信濃路の春なのだ。
 

 

 

 春かすみ 水仙の花 我をみる 

  昔の旅人(ひと)も 浅間ながめて

 


 その1 『中山道 望月の宿』

  中山道のボトルネックとも言える、狭隘な山のはざまに、街道の両側延びた宿場が「望月の宿」である。

町の真ん中を「鹿曲川」がながれる。この地形から想像するように、氾濫を重ね、民家が全流失したこともある。
冷夏?による大凶作とのダブルパンチの記録も伝えられる。
(天明2年:郷土資料館見学)

 稲作に向いた耕作地もない。浅間山も大噴火となれば、灰を降らせた。髙冷の地であるから、生活には大変だったとおもう。
農作だけでは喰っていけないから、養蚕の道具も残り、さもあらんと思う。

 

 地図を拡げてみると、今風なら、望月は「地政学的な戦略拠点」であった。
ここにかって望月氏(いつのまにか満月が豪族の名前に代わっている)が、ここに城を築いた。山城である。

しかし武田が興ると、あっという間に落城してしまう。
それでも、その後も地政学的には要衝であるから、江戸時代にもこの城は再構築されたようだ。

 城跡はちょうど中山道の通る望月の宿を見下ろす小高い山の頂にあった。
芽吹きに少し早い落葉の小道を上がった。

 

高みより 古里(ふるさと)のまち ながむれば 

  望月の宿(しゅく)   山のはざまに 


その2 『望月城は戦国まで山城であった』

天明のころの自然災害だが、ご先祖さまたちは、続く戦乱や飢饉の厳しい時にさらされ、真南に向かって移住したに違いない。

現代の地図で見ると、佐久→小海→野辺山→韮崎→身延→清水で、ピッタリと磁針の真南に向かったことになる。
察すると「南の海辺の暖かいところ」が、「食糧の豊かさ」のキーワードになっただろう。

 後日談になるが、興津の郷土史家の方を尋ねあて、実はこれが駿河湾と佐久を結ぶ、「塩の道」であったことを知る。
信州への塩の道は日本海側とばかり思っていたのも、うかつであった。

 現代でも、年老いた親が、都会に出た息子のところで、老後を過ごすことを選ばないのは多い。
考えれば、人間にとって、住み慣れた土地を去るのは余程のことであったと思うべきだ。
何よりも江戸時代なら「逃散」ということは難しかったはずだ。 

 そう思うと、引き金になったのは、「人災の類いなのか」となる。
なぜならば、環境としての自然というものは、よいときもあり悪いときもあり、しのぐのがフツーだ。
武田に編入されたり、江戸も末期になれば、物騒な人の往来が続く。
新撰組や、和宮降嫁の行列、維新の後も
天狗党の乱のとばっちりを受けたりした。
だから
そこに棲み留まっていた人も、権力から散々目にあわされた、と記録は語る。

 それをこの山城が、石垣だけになっても、見ていたのであろう

 

信濃路に 故郷(ふるさと)さがす 山の城 

戦国(いくさ)を耐えて 生命はつづく

その3 『春日の森を歩く』 

宿泊は 望月の宿から南に10キロ位はなれた、春日の宿に泊まった。

佐久の名物鯉料理を堪能し、翌日は春日の森を歩いた。

 このあたりは標高で1000m位のところ、季節は山道の日陰も雪がなくなったころである。

風は少し冷たいが森には暖かい日が差している。

その暖かさで雪の溶けた森陰に、福寿草の群落を見つけた。
福寿草は年末に花屋さんで売っているものと考えていたワタシには驚き以外はない。

 その上、さなぎの姿で、この山林の厳しい冬を耐えて過ごした蝶の孵化した姿を見た。

この蝶の「食草」の芽生えに、時期をちょうどリンクして、さなぎが蝶となる不思議さ。

太陽を背にして羽を広げ、背中一杯に、太陽の恵みを受けている。

人間を恐れないのか、近づいても逃げようともしない被写体であった。

(博物学のプロの友人から、その名をテングチョウと教えられた)。

この天の摂理に涙が出そうだ。

 

 春の野に 蝶よ花よと われ遊ぶ

  母のぬくもり  ゆめかまぼろし


その4 『小諸の懐古園をあるく』

いよいよ小旅の締めくくりは、小諸の懐古園を訪ねることにした。

中学生の国語の教科書に載っていたのがあの「千曲川のスケッチ」である。

昔のころは、何度も何度も、教科書を音読したものである。今の子供は眼で追うだけだ。

耳から入る音がどんな大切なものか・・・最近耳が少し不自由になると、言葉は目で見るものでなく、耳で読むものだとおもう。
「千曲川のスケッチ」は最近はCDでも全文を読んでいる。
(CDで詩や小説を上手な人の朗読できくと いつの間にか夢路に入ってしまう??)

「小諸なる 古城のほとり 雲白く 遊子悲しむ・・・」 藤村

 先駆者がこんな詩を作ってしまうから、後世には「小諸」という言葉を口にだすのも、難しくなる。

ところがワタシは、大胆にも、自称を、「平成の遊子」ということにしていたのである。

 確かに「小諸」と「千曲川」はベストマッチングかもしれない。

そこで「藤村の優先権」に抵触したくないワタシは、「小諸」の相方を「浅間山」とした。

何となく、赤穂浪士の討ち入りの合い言葉だが、「山」vs「川」なのである。

 

 懐古園には、今は梅が真っ盛りなのである。風は冷たく桜には少し早いが、蕾は膨らんでいる。
つまり、梅と桜は、ダンゴ状態だ。
花は良い。それでも山である、「浅間峯(ね)」が「盟主」である

 


 
小諸では 梅はさきがけ 桜継(つ)ぐ

白雲なびき 浅間峯(あさまね)が盟主(ぬし) 

2016/04/12     前嶋 規雄 記

フィナーレ

 ・・・とここまで書いた文章を、なんどか繰り返して読む間に、ひとつのメロディーが聞こえてくるのです。
少しませたことを言いますが、進駐軍がきたころのジャズに、この曲があったのです。
実際には高校か大学のころによくラジオで聞きました。あの「センティメンタル・ジャーニ」です。
今の時代ですから、ネットで調べると「感傷旅行」ではなく、「帰郷旅行」が和名として適当、とあります。
歌詞を読むと、やっぱりそうなのです。それがワタシの「潜在意識」になっていたのです。

 気がつけば あの山川も 草花(草花)も
   センティメンタル ジャーニホーム


   2016/04/26 追記