生きとせ生きるものの春   2016年3月28日        サイトトップへもどる

序章 春を歓ぶモノたち

 モノとはヒトだけではなく動物だけでもなく、風や、星も?歓ぶ

花鳥風月に加えて、水、星()、獣や、魚・・・
そしてヒトも
鑑賞者だったり、その対象だったり、どちら側でも良い。

ことさらに春は、互いに歓びを交わすのである。

 

 花鳥風月を親しんで、風雅を楽しむゆとりがあったのは、江戸も18世紀のころまでか。

時は流れて(失われた)300年、21世紀を、ワタシは「遊子のこころ」で、風雅に親しんで、時を過ごさんと念う。
そういう気持ちがなければ、庶民にも春は来るまい。

 

その1 八重寒紅(兼六園)

 北国なれど、金沢は本当はそれほど雪は積もらない。しかし特急が遅れるほど雪が降った。
一日おいて、懐かしい金沢の町を歩いた。講釈なしで、金沢は、良い想い出しかない。

 

 

 

薄日さし 淡雪となる 加賀の国 

  梅花(はな)凜として  武士(もののふ)の貌(かお)


その2 春の里

 花見といえば、いにしえは、「桜」ではなく「梅」で、万葉の最多登場の花は、「萩」であったそうな
(「萩」のランクは我が師のおしえである、いかにもつましやかな時代で良いものだ)

冬枯れの中に、紅であれ、白であれ、「色」を見つけるのは、楽しい。

早春の気配を求めて、梅の花を探して山里をあるく。

 ・・・ややしばらく小道を歩くと、やっと数軒の家が見えて来た。

肩を寄せ合うように、暮らしがあった。

つい少し前までは立派な茅葺きの家であったろう。いまでもその俤は残っている。

風景に溶け込んだ母屋の屋根を見ながら、近づいていく。

かなり遠くから、侵入者を感じたのか、彼(犬は雄と決めている)は吠えてきた。

一本道だから、ゆっくりとした足取りで、その家に近づいていった。

 

 吠える声で、旅人(ワタシ!)に気づいたのか、こちらを見ている家人に、遠慮して遠くから挨拶を送った。

彼は塀の中を、彼のために開けた窓から、こちらを見て吠えている。

通り過ぎるときには、「怪しきものではないのか・・・」と少し気まずい表情↓で、ワタシの通過を許した。

しかしワタシの足音がなくなるまで、彼は吠えて主君のために、任務を果たしたのである。

 

 古来人間の最大の友は、犬であった。↓が彼のロングスナップだ。(いい顔をしてますね)

ワタシの人生を振り返ると、何匹かの犬君達は、その時時の良き家族であった。



 春の里 茅舎(ぼうしゃ)見つけて 近づけば

   忠犬吠えて われ消ゆるまで

その3 山葵田(わさびだ)に水流れ


 子供のころは、オレンチのお国自慢と言えば、お茶とミカンが両横綱で、山葵と鰹節が大関だった。

お茶とミカンは庶民のもので、それが出回る、年末から初夏までの季語でもあった。

高度成長社会が始まると、「いつでもどこでも買える」つまり、現代用語で言えば「コモディティ商品化」したわけである。
こうなると、季節感や、産地のアイデンティティーは失われてしまうのである。
それが良いことなのかと言うと、そうだとは言えないところがある。

 ところが、鰹節とか山葵は、明らかに地域性とか、独自性を失わずに、ひと味違う価値を保持できているものだと思う。
山葵がそのチャンピオンだと思う。誰もがまず思い浮かべるのは、ツンとした「あの香り」ではなく、「清流」なのだ。

 


 ゆるやかな 山辺(やまべ)の小道 清水(みず)流れ

 山葵(わさび)四寸(よんすん)  春の色みせ

 

 

終章 花鳥風月


 これが永い間、歌の対象であった。

すでに現代社会では「死語になった」表現で言えば、それを詠うことを「風雅」と言うことになるらしい。
いずれにしても形而上の類いも含むのであろう。手段として仮名漢字はメディアとしては不便だ。
だから「比喩」などという手段を持ち出して、代理させたりする。

 ところが、自然のカタチをあまり超越した「ご神体」では、庶民には共感し難いモノになる。

だから思うのは、ワタシの歌は「感興に連なる、見える化のメディア」だと定義している。

 

 理屈はさておき、「花」には格別の思いがついて回る

この季節には、「桜」より少し短命な「モクレン」は際だってよい。

 

モクレンの花言葉は、「自然への愛」「崇高」「持続性」?だそうだ。

木蓮のRENは蓮であるから、想像通り中国原産。

その中国でも、雲南省が原産地であるから、原日本人の起源地と重なり、親近感を生むらしい。

しかし「紫木蓮(しもくれん)」が本家で、白いのは「白木蓮」と言い、別なのだそうだ。

(無学にもワタシは知らなかった)

 

 我が家の狭い庭で、一番威張っているのが一本の白木蓮である。

ワタシが会社人間だったころは、いつ咲いたのかそれを見ないで終わった年もあった。

(ハクモクレンさんゴメンなさい)

カミさんの手入れが良いのか、今年もきれいに咲いてくれた。

 

 ところでこのハクモクレンさんをを一番、楽しく鑑賞したのは「誰か?」

ヒントが3枚の写真で↓に並ぶ。よく見ればそう、「それが正解だ」!

 

 

 

  金魚にも 春の中空(なかぞら) ゆらゆらと

    雲より白し もくれんのはな

 2016/03/28   前嶋 規雄 記           サイトトップへ