2015年を迎えて考えたこと
新年を迎えても政治家や、マスコミを含めて,年頭の決心として彼らの口先から
でてくるものはこれまでのいわゆる(20年?の)「失われた時代のやり直し」(リフレーン)が
ほとんどで、具体性はない。
大半の人々が民主党に期待して寄り道をし、「やはり自民党政権」と選択をしなおしても、
もう第二次内閣で立ち上がったはずの変革が見えてこない。
3本の矢にしてもデフレ対策なるものは貿易黒字が伸びないだけで、
消費者には物価の値上がりが大きすぎて、結果の成否は一般人には見えてこない。
見えているのは手慣れた、国民の資産をつぎ込んだ財政投融資であり、
震災復興から地方創成に名前が代わるだけのようだ。
そして肝心の第3の矢となる成長戦略は、誰の目にも「これでよい、後は待つだけ」とは映らない。
理由は戦後70年経って役者が代わっても、戦後からの基本シナリオが寸分もとは言わないが、
ほとんど変わっていないことによる。
明治の初めから先の大戦の終わりまでは77年で、
戦後から今まで同じ位の70年がたってしまったのである。
1956年の経済白書では、有名な「もはや戦後ではない」が言われた。
物事はある程度成果が出れば、その後はよほど意識の変革が自発的に発生しなければ、
停滞ないし縮退するのは歴史の教えるところだ 。
バブルの絶頂→崩壊だった頃は、それは経済の話だと思い、
その次に来た2007年のリーマンショックでも、「迷惑な外因」と大半の日本人は思い込んだ。
実は明治の開始で始まった、実質は建国に匹敵するはずの日本の選択肢や価値判断にも、
原点に戻った修正が必要とは今でも受け取られなかった。
つまり近代日本の起点を戦後が起点としてしまった。
フクシマの悲劇の後になっても、世界中にエネルギー資源の確保に走った日本は
エネルギーの世界一の輸入大国になってしまった。生命線の海外依存に関しては、
追い込まれた太平洋戦争の開戦前と変わってはいない。
最近TVで見られた方が多いと思うが、「太平洋戦争に反対した」とされる、山本五十六が
親友の堀悌吉にあてた直筆の手紙が大量に発見され、公開された。
かれは米国の油田の掘削現場や、デトロイトの工場の中まで見学している。
このあたりが、ただの武人とも思えないところである。
米国留学中の山本五十六 テキサスの油田を見学する
さて基本シナリオとは「戦後のレジーム」と言ったら適切だ。
偏見を恐れずに、象徴的に言えば、戦後のレールを敷いて今でも日本を動かすのは、
吉田茂と松永安左エ門の両名だ。
電力の鬼だが?雅号は「耳庵」 マッカーサーを葉巻の煙に巻いた我らのワンマン
お二人とも「毀誉褒貶」の多い方だ。吉田さんは日米関係や経済面でも戦後の路線を敷いた。
昭和となると、明治の慎重さを忘れ、島国の生命線確保を大義とし、
近隣国に対する過剰なコミットメントを主張する軍部の暴走を停めることが出来なくなり、
明治この方の辛苦の成果までリセットされることになる。
吉田さんは昭和の初めからの日本の危うさを海外経験から見る目を持っていた。
だからどこまでこの国が自分でコミットするべきかを意識して、
米国の傘を逆手にとった戦略が、戦後の経済による復興に繋がった。
しかしそれは「功なりて・・・」で、今はもう終わっているのである。
まだ通用すると思うのも間違いであろう。
もう一人がなんで松永さんかと言えば、「電力の鬼」と呼ばれたこの方の伝記を見れば判る。
福沢諭吉に心酔し、後に日本の高度成長のインフラでもあった電力システムや
水力発電(原発導入も)など、この人の貢献によるところは大きい。
この制度もフクシマを期にやっと「新電力への改変」と言われるが、
なかなか政官界への置き土産は大きいようだ。
考えるまでもなく、国際社会の中でこの国が自由を制約されることなく生き抜いていく
重要なファクターとしては、国際関係の枠組みや、これから確実に地球から不足していく
(自給できる)エネルギーや食料などが、人的資源とあわせて、挙げられる。
もう一つは最近特に顕著になったグローバル化も、
経済の限りない海外依存のリスクを積み上げることになる。
今や経済活動とはゲームなのだ。自己完結なら別だが「戦略的互恵」などは空想と思う方が良い。
競争下において勝つことが目的ならば、よく言われるように、「ゲームのルールを変える」ことだ。
資源や食料の自給を可能にすることこそ、選択できる自由度を上げることが出来る。
それは「居心地の良い国」にも繋がる。
歴史が教えるのは、かっての戦争も海外依存の経済も、どこまで手を広げて、どこで退くべきか、
自発的に決めないのが農耕民族の性格らしい。
終戦から70年も太平の世を過ごした我々は、思い直すゆとりを持ち、自立国家の創成に向い、
出来ることを少しでも積み上げていくことが大事なのだとおもう。
2015/01/05 前嶋 規雄(オフィス エム・ソリューション) 記