個人に国家は本当に必要か                 トップページへ

「何をそんなことが今更」と思う人がフツーの感覚と思うかも知れない。

まず「国家」と言う文字には「家」が入っているから、個人には必要だとも言えなくなった。
老後をシンガポールやタイで過ごしたい日本人は結構いるそうだ。

 昔のユダヤ人のように住むべき国家を求めた人たちや、ボヘミヤンのように

定住できないことの表現として使われたこともある。しかし世界中に華僑の人たちがいて、
強い経済力や広い地域で連帯感を持つことはよく知られている。

最近では日本人も「倭僑になるべきだ」という人すら出てきている。

これは戦後70年となった今は、昔とはかなり違うと思うべきだ。

むしろ経済的要請の側面を持つグローバリズムのつの帰結と言えるかも知れない。

 最近でもユダヤ難民の人たちに、外務省をあざむいても、ビザ発給を出し続けた外交官の
杉原千畝さんの話がTVで肯定的に語り継がれている。

 同じように最近のTV放送で,私にとっては「大正ロマン」の叙情しか知らなかった竹久夢二さんが、
晩年にドイツに留学した時の絵が公開され、ユダヤの人たちに大きなシンパシーをもっていたことも
TVで知った。(偶然「夢二外遊記」という限定出版本の,復刻版を別の人からもらった)。

 そこに描かれたナチス時代のユダヤの少女の目には,それまでの絵と違って、「時代の闇」を見る、
深い悲しみが描かれているという。

  
    

 こうなると同じ地球の上でも、日本を見れば、地政学的な安全を備えた島国で、
温帯モンスーンという食糧の確保された地域で暮らしてきた我らには、「国家意識が希薄」でも

不思議はないのかも知れない。(2000年もたてばDNA?だって変わる)

 開国を近代史の始まりとすれば、「国家」と言う観念は「外部要因」で
とってつけた

ようなもので、当時の先進国から咀嚼もしないで輸入したものであろう。 

 近代史を今学ぶおもしろさは、ITという手段で圧倒的に「見える」ものが増えて、

時代を超えて「知る」事が出来る。そして「立ち止まって考える」事さえできれば新しく
歴史から学び取ることが出来るのである。

 今まで「自立する国、日本を創ろう」と言ってきた。これは優先度第一の正しいことだと確信する。
 私は右でも,左でもなく、父祖の生まれたこの国が好きなのである。

自然エネルギーを始めこの国は技術力を活かせば実は「資源大国」なのだ。
 心配したことは,我々の中に「国家」という観念がなくなり,モノづくりを初め、

企業など真っ先に海外移転して、この国に払う税金を減らすことに専心しだした

本気で「国家は必要なのか」に行き着くはめになるかも知れない。


「結果として世界に貢献できる」ことは別なのだが、
世界規模で考えることは難しい。

「隣り百姓」という農耕民族の本能では、やってもいけない事なのだとおもう。

(今回の物価の便乗値上げこそ、哲学のない日本人の最たるもの)

追記 

 上げ足をとるわけではないが、かねて比較的に好意を懐きたいと思っていた
安倍総理の年頭所感にこんな一節があった。


 -前略-『そして、先人たちは、高度経済成長を成し遂げ、日本は世界に冠たる国となりました。
当時の日本人に出来て、今の日本人に出来ない訳はありません』

 なりふりかまわない高度成長だけが国家目標でいいのだろうか?
それよりも気になったのは,「世界に冠たる」というセピア色の表現だ。

昔のドイツ国歌の一節に同じものがある。Über alles in der Weltで、

ドイッチェランド ドイッチェランド ユーバー アーレス である。
 高度成長を担った時代の一員として小生は別な感懐もあり、「世界に冠たる」といわれれば,
総理の気負いもあるのだろうが、醒めてしまう。

(気にならない人もあるだろうが・・・今度美術館に行って,少女の眼をよく見てきたい)  

             

              2015/1/3 前嶋 規雄 記


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