2012/1/9
自立にも種類がある *古典的な「自立」は、他への従属から離れて独り立ちすること、他からの支配や助力を受けずに、存在することと解釈されている。 *現在では他からの支配や助力からの脱却は肯定されるが、「他=自分のものではない存在」を利用したり、「他」を前提にすることは不問で、それが「真の自立」を妨げていると理解されていない。例えば「戦略的互恵」とかいうごまかしや、本来は「盗人猛々しい」行為が「自由主義経済」とか言う表現で正当化されたりする。 *古来の日本語では「恃む:タノム」という言葉がこれにあたる。つまり「あてにする」、「利己的に期待する」などと言うべき類である。 *こうして習いが性になると、日本は自立の対極状態となった。自らの価値観すら維持できないものとなる。鬱積する不満や脱力感はこの理由に尽きるといえる。 |
日本がこれまで置かれた状況を歴史としてふり返る |
トップランナーにあったはずの達成感のがない *停滞と閉塞感の時代が始まる。リーマンショックにしろ、自国では何も解消出来ない事にやっと気づくのである。いずれにせよ何かを変えないと出口は見えない。 *そんな時に、子供の頃、グリム童話で読んだ「ハーメルンの笛吹」を思いだす。子供達が列を作って、皆で山の中に入って行って消える話である、一人ではどうすることも出来ない。多分「皆がそうだから・・・」が答えであろう。 *ここで「自立」と言うことの意味と重大さに気づく。 |
第3幕はいつ上がるのか・・・ *あれだけのできごとがあって、年は改まったが、「再生日本」ではなく「新生日本」の幕は上がりそうにもない。何となく「今年はGDPが回復すれば」の期待の類では、もたれ合いの世界から脱却しそうにもない。 *しかしぼんやりと、意識の中に変化の兆しを感じる。それは「地産地消」とか「自給自足」というフレーズが受け入れられ始めたのである。感覚ではなく理性の中で納得が形成されれば「変化」が始まる。第3幕というのは総理大臣が宣言するものではなく、小さな流れが「大河の流れ」に変わるように、後から気がつくものかもしれない。 |
ハーメルンの鼠男から
出羽の山の細流を集め大河となって酒田に下る最上川 眼の良い人には風車が見えますね! |