2012/1/9

 自立にも種類がある
古典的な「自立」は、他への従属から離れて独り立ちすること、他からの支配や助力を受けずに、存在することと解釈されている。
現在では他からの支配や助力からの脱却は肯定されるが、「他=自分のものではない存在」を利用したり、「他」を前提にすることは不問で、それが「真の自立」を妨げていると理解されていない。例えば「戦略的互恵」とかいうごまかしや、本来は「盗人猛々しい」行為が「自由主義経済」とか言う表現で正当化されたりする。
古来の日本語では「恃む:タノム」という言葉がこれにあたる。つまり「あてにする」、「利己的に期待する」などと言うべき類である。
こうして習いが性になると、日本は自立の対極状態となった。自らの価値観すら維持できないものとなる。鬱積する不満や脱力感はこの理由に尽きるといえる
電力

 日本がこれまで置かれた状況を歴史としてふり返る
第1幕は「列強の植民地になるのでは」という恐怖を感じながら、実態は「海外依存」という体制から開化は始まった。富国強兵のスローガン通り、明治大正と「遅れてきた帝国主義国家日本」の拡大は、太平洋戦争の敗戦で終焉となる。
第2幕では灰燼と帰した日本は立ち上がり、技術力でその資質を発揮し、意外にも経済大国という高みにたどり着く。
しかし成長という仕組みそのものが、さらなる拡大を要求する。経済進出は隣国の韓国へから始まり中国からアジア全域と広まる。欧米という「輸出市場」はもちろん、原材料、エネルギーといった世界中からの資源確保が「日本の生存要件」と確定した。
漆器や絹織物を輸出した時代とは明白に異なる。

 トップランナーにあったはずの達成感のがない
停滞と閉塞感の時代が始まる。リーマンショックにしろ、自国では何も解消出来ない事にやっと気づくのである。いずれにせよ何かを変えないと出口は見えない。
そんな時に、子供の頃、グリム童話で読んだ「ハーメルンの笛吹」を思いだす。子供達が列を作って、皆で山の中に入って行って消える話である、一人ではどうすることも出来ない。多分「皆がそうだから・・・」が答えであろう。
ここで「自立」と言うことの意味と重大さに気づく。
 第3幕はいつ上がるのか・・・
あれだけのできごとがあって、年は改まったが、「再生日本」ではなく「新生日本」の幕は上がりそうにもない。何となく「今年はGDPが回復すれば」の期待の類では、もたれ合いの世界から脱却しそうにもない。
しかしぼんやりと、意識の中に変化の兆しを感じる。それは「地産地消」とか「自給自足」というフレーズが受け入れられ始めたのである。感覚ではなく理性の中で納得が形成されれば「変化」が始まる。第3幕というのは総理大臣が宣言するものではなく、小さな流れが「大河の流れ」に変わるように、後から気がつくものかもしれない。

ハーメルンの鼠男から

 出羽の山の細流を集め大河となって酒田に下る最上川
 眼の良い人には風車が見えますね!